Masayuki Takizawa .WEB

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column

作曲家について
F.F.ショパン(1810-49)


ショパンはほとんどピアノ曲しか書かない作曲家で、

しかもどちらかといえば技巧的な大曲よりも、小規模な作品を好んだ。彼はまた、パリのいわゆる社交界に属し、ベルリオーズやリストなどの音楽家の他に、画家のドラクロア、詩人のハイネらと親交があり、また年上の女流作家ジョルジュ・サンドと長期間生活を共にした事はよく知られている。

音楽史の時代区分では19世紀ロマン派にくくられるショパンは、音楽思想的には、当時のロマン主義者とは一線を画しており、シューマン、リスト、ベルリオーズなどのロマン主義者を心の底では嫌っていたという。

ショパンの音楽の魅力は、その躍動性と感傷性である。ポロネーズとマズルカは、ポーランドの郷土色を強く反映して、高度に芸術化した踊りの曲である。ショパンのようなやさしい性格で、よくもあれだけ勇敢なポロネーズが書けたと思うし、反対にマズルカにおける情緒的でデリケートな感情は例えようがない。

ショパンの作品を演奏するには、ルバートが大事である。ルバートとは、左手の拍子を保ちながら、右手の旋律をわずかに急いだり、遅れたりすることであるが、この技術の善し悪しによって、その演奏の芸術性が問われる。このルバートは、特にマズルカでは生命線であるが、バラード、スケルツォ、ワルツ、ノクターン、即興曲においても、ルバートを無視してショパンの心に触れることはできない。

紹介したい作品として、「雨だれ」を含む、『24の前奏曲 Op28』。「別れの曲」や「革命」を含む、『12の練習曲 Op10』。『夜想曲 Op9』。『マズルカ Op7−1』を挙げておく。

ショパンについてもう少し
「ショパンの決断:ポーランドを去り、ウィーンへ、そしてパリへ」

□ ショパンの祖国ポーランドという国は、 17世紀から18世紀にかけて、オーストリア、ロシア、ドイツ、フランスといった当時のヨーロッパ列強国との狭間で翻弄され、熾烈な争いの末に分割され滅亡した時期のある国である。ポーランド国民には長い歴史の間ずっと、祖国愛、愛国心といったものが強く流れ続けている。

□ ショパンの音楽は、 非常にポーランドの農村風景と結びついている。彼の作品にはポロネーズやマズルカが多くあるが、それらはポーランドの民族舞曲の事で、幼少期の原体験が根底にある。

□ ショパンの天才性 7歳の時に作曲したポロネーズが、ワルシャワの雑誌で絶賛された。「このポーランド舞曲の作曲者は、音楽の真の天才で、至難な技法のピアノ曲をいともやすやすと、またとりわけ味わい深く演奏する。」

□ 19歳の時に ショパンは、同じワルシャワ音楽院にいた声楽の生徒、コンスタンツィアと出会い、淡い初恋となる。純情で奥手のショパンは、思いを告げぬままに初の海外旅行ウィーンへ旅立つ。ウィーンではかつて多くの大作曲家が活躍し、足跡を残していた。かつてハイドンがいて、モーツァルトは死んで40年、ベートーヴェンは2年前に、シューベルトは1年前に死んだばかり。そして当時現役のピアニストの中には、モーツァルトの弟子のフンメル、ベートーヴェンの弟子のチェルニーらがいた。ウィーンの聴衆が聴き慣れていた音と異なり、ショパンのピアノは軽快で甘美で静かで優雅な音だった。

□ ショパンはウィーンでコンサートに片っ端から出かけて行った。ロッシーニの歌劇シンデレラも見ている。また、音楽出版業者たちの店を訪ね、楽譜出版の話をしたり、劇場の支配人と会ったり、貴族のサロン演奏したり、いわゆる営業活動を行う。かつてのベートーヴェン、モーツァルトしかり、天才といえども、自分を売り込むことに汗を流す時代はあるものだ。ウィーンでショパンの音を聴いた者は皆、公開演奏会をすすめる。演奏会の準備は周囲の人がやってくれ、ショパンはウィーンで思いがけずデビューすることになる。

□ 2ヶ月ぶりに帰ったワルシャワでは、 ウィーンでの強烈な刺激と興奮から覚めやらず、故郷の音楽生活は生ぬるく感じた。 翌年の1830年にはワルシャワを離れ、ウィーンへ再度行くが、情勢が急変。ワルシャワでは革命が起き、ロシアの同胞国のオーストリアのムードは、ウィーン滞在のポーランド人に急に冷たくなる。ショパンは故国で闘う家族や片思いの恋人コンスタンツィアへの思いも重なり、失意の日々を送る。一緒に旅をしていた親友のティトスは、義勇軍に参加するためにワルシャワに帰っていった。その年のクリスマスと新年、ショパンは一人っきりで孤独に迎えた。自殺をも考えるような焦燥感の中にあっても、彼の楽想は衰えず、マズルカ作品6と7、ノクターン作品9、エチュード黒鍵などを生み出している。

□ 1831年7月、 ショパンはこのつらいウィーンを発ち、リンツ、ザルツブルグ、ミュンヘン、シュトゥットガルトを経てパリへ向かった。もう二度と家族と会えないかもしれないという事を悟った上で。

□ パリはすでにウィーン以上の音楽の都になっており、 演奏会は賑やかで水準もどこよりも高かった。ショパンはリストと会い、メンデルスゾーンとも親しくなる。のちにベルリオーズ、画家のドラクロワ、詩人のハイネなど、同年代の芸術家と胸襟を開いた間柄になっている。ショパンはその5年後、小説家のジョルジュ・サンドと運命的に出会うことになる。

□ 有名な子犬のワルツは、 ジョルジュ・サンドが、飼っていた犬、マルキというマルチーズを音楽にしてくれと、ショパンに頼み、くるくると駆け回る様子を描いたものらしい。

□ 偽作ではあるが、フルートとピアノの曲がある。「ロッシーニの主題による変奏曲」だ。 ショパンが19歳の時の作品とされている。ロッシーニの主題の原曲は、オペラ 「シンデレラ」 の中の 「もう悲しくありません」 。愛らしく可憐な主題で、オペラのなかではメゾソプラノの軽い声質の人が歌う役柄のようだ。想像だが、ウィーンでこのオペラを生で見ているのでその時に書いたのかもしれない。