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column

作曲家について
I.F.ストラビンスキー(1882-1978)


1911年6月13日、パリのシャトレ劇場で、バレエ「ペトルーシュカ」は、大成功を収めた。

ニジンスキー主演のディアギレフのロシア・バレエによる初演である。この作品で新進作曲家ストラビンスキーの、楽壇の中心パリでの地歩は決定的なものとなった。写真はストラビンスキーとニジンスキーである。

目の醒めるような冒頭、鮮やかに交互する対照的なフレーズ、強烈な風刺的イディオム、そうした全てがロシア民謡の素材を編曲する形で作られている。恐らくストラビンスキー創案のメロディーは一つもない。しかし素晴らしいオーケストレーションとたたき切るような大胆な転換とによって、一つの作品にまとめられている。

元の民謡を知る人は大爆笑。ロシア音楽がブームであったパリでは大ヒットした。ここには19世紀的な民族的ロマンティシズムは一片もなく、新鮮でドライ、モダンでシニカルな新しい音楽の可能性が開けていた。

ディアギレフとは、20世紀の舞踏音楽の大立者の一人で、ロシアバレー団の経営者である。彼の舞踊団はパリを中心にヨーロッパ全土を征服し、更に南米にまで、巡業の足をのばしていた。彼の功績は、多くの新進の作曲家を発見して、バレー音楽を作曲させたことで、今日となっては、ディアギレフとストラビンスキーを分けて考えることはできない位に関係が密接である。

ディアギレフのために最初に書いたのは、「火の鳥」のバレー音楽であったが、これはパリに初演されて予想外の成功をおさめ、それに自信を得て次々に出したのが、「ペトルーシュカ」と「春の祭典」などのバレー音楽である。

「春の祭典」という鬼子を生みだした彼は、しかし、「祭典」の方向にそのまま進みはしなかった。ストラビンスキーというと、「祭典」の作曲者としてのイメージが強いが、彼の独自性は、「祭典」ではテーマの異様さや素材の強烈さのためにむしろ後退してみえる。

ストラビンスキーはこの後、「うぐいす」「狐」「兵士の物語」と、むしろ「ペトルーシュカ」で顕在化したドライな方向に進み、1919年の「ピアノ・ラグ・ミュージック」でジャズを、翌年の「プルチネルラ」で18世紀の伝ペルゴレージ作曲の素材を用いて編曲の魔としての本領を発揮してくる。その後も様々な素材、ジャンル、編成を身にまとって、それら個々の特色をデフォルメした作品が続く。オペラ、オラトリオ、ジャズ、サーカスポルカ・・・カメレオンと呼ばれる彼のスタイルの変遷に周りのすべての人が振り回されていたのだ。

ストラビンスキーのドライで毒々しいキャラクターを、彼の音楽の醍醐味として受け入れることができれば、これほど魅力のある作曲家も少ない。

ともあれ、鮮やかな管弦楽法は聴き応えがある。ぜひその魅力に触れてほしい。きっと中毒になるに違いない。