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column

音楽の歴史
バロック(16世紀の終わり〜18世紀前半)


ご存じ、ヘンデルやバッハが活躍した時代。音楽の中心がイタリアからドイツに移り、多声音楽がさらに発展。バッハにより対位法様式(フーガ等)が完成された。この時代の音楽は、教会や宮廷と密接な関係にあった。

イタリアのオペラ作品や、協奏曲作品によって、ルネッサンスは実を結ばれることになるが、それは同時にバロック時代の始まりでもあった。これまでの音楽は、イタリア、フランスに中心があったが、この時代から2世紀にわたって、北方に音楽の中心が移っていったのだ。

バロックとは、元来の意味は形の整っていない真珠のこと。この言葉が芸術様式を指すようになったのは、やはり建築が最初で、ギリシャ、ローマの形式美を重視したルネッサンスの芸術に対する新しい表現であり、後のロココ芸術の前提となったものである。その特色は、典型美にとらわれないで、表現が自由であること。語義からして、ルネッサンス美を正しい真珠の丸さだとすれば、バロック美は、イビツな真珠にも等しい。形式の均整を破っても表現の強さを重んずる様式である。

一口に言って、バロックの様式は、ルネッサンスのそれに比べて、感情が豊富でドラマティックな盛り上がりがあり、手法も絵画的で空想的なものが多い。

これは代表的なバロック建築、ドレスデンのツウィンガー

バロック時代のドイツ音楽は、バッハ、ヘンデルによって代表される。そしてその音楽をまず結論的に言うなら、中世以来のポリフォニー音楽の頂点を作り上げたということ。イタリアルネッサンスの新しい音楽を取り入れ、はっきりと合理主義的な近世音楽をうち立てた時代である。

バッハ、ヘンデルによる近世音楽とは、単なる形式美だけでなく、科学と哲学とに立脚した美的理念を追求し、これを組織的に、形式と内容に、刻明に表現していくものである。

18世紀前半のローマ、パリは学問、文化の中心であった。そしてオーストリア政権も有力であり、ウィーンも芸術文化の中心となっていた。よって、これらの都市には平穏な芸術運動が継続されていたのだ。



この間にあって、北方のプロイセンは、政治的には微力であったが、近代哲学の祖、ライプニッツの観念論や、英国のバークレイ、ニュートンなどの数学論、科学論が盛んになって、合理主義的、組織的な近代観念が溢れていた。 こうした間にバッハ、ヘンデルが現れて、音楽の面での合理主義、思想主義を実践して、当時の思想表現に一役買ったのである。

ヘンデルとバッハの音楽は、史上に光り輝いている。
17世紀までの音楽の、独立性を持たず、他の文化の随伴的な、装飾的な意義しか持たなかったものが、バッハ、ヘンデルが出てはじめて、音楽の価値が、他の芸術の上に優先し、その合理的創作が、世の人々の知的要求に迎えられるようになったのである。

ヘンデルとバッハは同じ年の1685年に、わずか4週間の違いで生まれた。死んだのはバッハの方が9年ほど早かったが、晩年に二人とも眼を完全失明したことなど、共通の不思議な運命が見受けられる。
ところが、二人が歩んだ一生をたどってみると、対照的なところも多い。バッハは生涯ドイツの国境から外へは出たことがなかった。敬けんなプロテスタントとして、教会につかえ、忠実な宮廷音楽家として貴族につかえた。彼が取り入れたたくさんのイタリア音楽の様式も、実は間接の影響だったのである。それに反してヘンデルは若いときからイタリアに留学して直接イタリアを学び、活動舞台をロンドンに求めて、ついにはイギリスに帰化してしまった。だから当時はバッハよりも、ヘンデルの方が国際的に名声が高かった。ヘンデルの墓は、ウェストミンスター僧院にあるのに、バッハの墓は気をつける人もいなくて、一時行方が分からなくなっていた事実は、まさにその名声を裏書きしているようだ。

ところで、ヘンデルの音楽は、作品の種類がオペラやオラトリオに多いし、器楽的な作品でも声楽的な要素が強い。これはイタリアの影響であると同時に、過去につながりを持つものであると見られる。対してバッハの音楽は、声楽的な作品に至るまで、器楽的な要素が強い。これは、次の古典主義時代の未来に尾を引くものではないだろうか。